一冊のノート

ノート


今回はちょっとノスタルジックな話題です。


本日は父の命日でした。


大学1年の冬のあの日から、ちょうど15年がたちました。

父の最期は母と妹2人と私の4人で自宅の寝室で見送りました。眠るような最期を迎えた父の姿が今でも忘れられません。

そのとき1年浪人して大学生になった私にとって、その年の1月15日は自分の成人式でしたが、何の因果かその日が私の父の葬儀の日でした。地元の同級生が田舎に戻ってきて成人式に出ているなか、自分の父の葬式に出ていた自分はなんなんだろうって考えていたのを覚えています。

でもその直後の2月初めの私の誕生日に、大学の部活の同級生のみんなが、落ち込んでいた私を励ますためにグランドで誕生日のお祝いをしてくれました。みんなによくしてもらったあの日のことは一生忘れないと思います・・・


そして、私は大学を卒業し、就職しました。
父が亡くなって数年後、家族は私が生まれ育った故郷(宮城県北部の登米市)を離れて仙台市内に引っ越しました。今、家族が住んでいる仙台の家は父が元気なときに建てていた家です。


さて私が中学3年の夏までいた家は、とっても大きな家で敷地面積が400坪もあり、お米の関係の仕事していたので、大きな米蔵が2つもある家でした。自宅も築100年以上も経った家で、庭には大きな松の木やつつじがあったり、裏庭には柿の木も4本あったり、ぶどうの木もありました。子供の頃は同級生を呼んでかくれんぼができるぐらいの家でした。
ちなみに私は中学3年の夏に仙台の高校に越境入学をするために親元を離れて、中学を転校して親戚の家に住み、高校時代は学生会館のようなところに住んでいました。


自宅の米蔵です
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自宅の2階から裏庭です。木の両脇の建物が米蔵です。
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玄関から奥の米蔵にかけてです。家のすべてがガラス戸でした。
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家のなかはちょっと暗く、人が住んでいなかったので散らかっていますが、天井が非常に高く、部屋の広さが20畳ぐらいある部屋つながっていました。
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父は30歳ぐらいに東京で勤めていた銀行辞めて実家に戻り、祖父から会社を引き継いでお米の商売を続けていましたが、その商売も父が亡くなって数年後に閉じました。会社は父の代まで4代続き、会社ができてから90年近く続きましたが、私が会社を継ぐ意志をもっていなかったので、その会社を閉じることになったわけです。


実は昨年、その生まれ育った私の故郷にあった自宅を売却しました。
そしてその家や米蔵や倉庫などは売却後にすぐに取り壊されて、今は更地になったと、最近になって母と地元の友人から聞きました。私はまだ見ていませんが、ちょっと寂しい気もします。
しかし時間が経過していくなかで、必要な出来事だったと思います。(※上の写真は一昨年自宅を売却する前に最後に撮影したものです。)



そして家を売却する直前に、最後に家の整理をしているなかで1冊のノートが見つかりました。

それは父の大学時代の勉強のノートです。


父は東北大学経済学部に入学して、かなり成績が良かったことは、父の親戚や母から聞いていました。その当時大学院に進むか就職するか悩んで、最終的に銀行に就職することを選んだ父です。

そんな父のノートは昔何度かみたことはあったのですが、自宅が売却される前に残っていた1冊だけ持ってきました。
改めてみると、20歳前後の父がよく勉強していた跡が残っているノートで、大学時代全く勉強をしていなかった私とは大違いだったことがわかります。
一方で今の私はまだまだ半人前で、正直、仕事も、勉強も、そして家庭も発展途上なところばかりで父の足元にも及びません・・・



今、私は改めてそのノートを見ながら、いつも自分にはっぱをかけています。


私も2005年に結婚をして、昨年は子供も生まれ、父が進学することがなかった大学院で勉強する機会も得ることができました。また昨年生まれた自分の息子には、尊敬する亡き父の名前から一文字もらった名前をつけました。


いつか息子が大きくなったときに、そんな亡き父の話をしたいと思っています。