言葉を失う・・・

きっと人生で初めて、本当に「言葉を失う」という経験をしたのかもしれません。

ボランティア活動をするため仙台市若林区荒浜近くの津波の被害を受けた現場を目にした瞬間の率直な感想です。

尊い命が多く失われた現場は、震災から2カ月近く経った今でも、この世のものとは思えない光景でした。前の日まで普通の生活があったその場所が、一瞬にして・・・胸が締めつけられる思いでした

震災当日の報道で、仙台市の荒浜で数百の遺体が発見されたとの報道があったところです。



仙台市は、海から内陸に3〜4キロぐらいのところに、仙台東部道路という高速道路が走っています。この高速道路は仙台の市街地を通らずに仙台空港仙台港に抜ける道路となっていて、この道路沿いにはいくつもの物流の拠点があり、東北の産業を支える重要な道路となっています。高速道路であるため、地上から5〜6メートルぐらいの高さのところを高速道路が走る形となっています。この道路は首都高のように道路が柱で支えられているのはなく、土を盛り上げた上に道路がある形態です。またさらに道路の両側(特に海側)は米どころ宮城・仙台平野の広い田んぼが広がっている地域です。

映像でもご覧になっていると思いますが、津波は海外線を越えて、防砂林となっている海岸線沿いの松林を越えて、この田んぼを襲いました。そして津波仙台東部道路にまで達して、この道路を挟んで海側は甚大な被害を受けたものの、逆に内陸側の被害は最小限に食い止められました。まさにこの道路が津波の防波堤の役割を果たしていました。聞くところによると、車で逃げた人の中には、逃げる車で渋滞となり、車を乗り捨ててこの道路に駆け上がって助かった人が多かったと聞きました。


私は、多感な高校時代に通っていた高校や下宿があった仙台市若林区が甚大な津波の被害を受け、震災後、微力ながら少しでも地元の役に立ちたいと、そんな気持ちで、募金だけでなく何かボランティア活動をしたいと思い、このGWに一人で仙台に来ました。相当ひどい状況であることは、報道などを見てで覚悟して来たつもりでしたが、ボランティアセンターからボランティア作業の現場に向かうバスに乗って、この仙台東部道路を内陸側から海側に小さなトンネルで抜けたあとの光景を見て、言葉を失いました。テレビや新聞だけではわかならい、本当に広大な地域が津波の被害を受けていました。


田んぼの中で至るところで車が埋まり、家の中にあったはずの家財道具が田んぼのなかに散乱し、なかには海岸線にあったはずの大きな松の木が、田んぼに逆さに刺さっているような光景を目にしました。

ところどころに集落があるのですが、比較的新しい家は、家自体は大丈夫なのですが、よく見ると1階の自分の身長よりも高いところに横に泥の線が見えて、ここまで水がたまっていたことがわかりました。最初は10メートルぐらいの津波をかぶって、その後、水が引かず、2メートルぐらいのところまで数日水が残っていたようです。

また、このあたりは農家が多いため、農機具をしまっている古い納屋は屋根が真っ二つにVの字で割れていたり、あるいは大きな柱が斜めに歪んで、いつ倒れてもおかしくない状況になっていたりと、そのような建物があらゆるところに散見されました。

さらに建物には「捜索終了」の張り紙やマジックで窓に書かれていて、自衛隊や米軍が捜索活動を行ったあとが見えました。

時折、自衛隊のヘリや車が近くを走っていたり、ひっきりなしにゴミ収集車が走っていましたが、よく見ると東京23区と書いてあって足立ナンバーだったり、その他の地域のゴミ収集車もあり、全国から支援の車が来ていました。

津波の被害を受けた方の感情を慮って、写真撮影はしないで欲しいというボランティアセンターからの強い要請があり、ここでの撮影をしていないため映像をお見せできませんが、私の目にはこの光景が強く焼きつきました。

とりとめのない文章となってしまい、すみません。

ボランティア活動の様子は、また次のブログで書きます・・・