同世代の勉強会

ずいぶん更新が空いてしまいました。すみません。

昨年立ち上げた同世代の勉強会ですが、今回で6回目、今年で3回目の開催です。

今回は「震災」をテーマに、弁護士Hさんに講師をお願いいたしました。今回の参加者は18名となり、いつもの税理士Oくんの恵比寿の事務所ではなく、Hさんの日比谷の法律事務所で行いました。Hさんありがとうございます!

内容ですが、この震災を教訓に、原発の問題などから「法の支配」について問題提起が行われ、Hさんの発案で、今回は皆さんにうまく話題を振ってもらいながら、インタラクティブな感じで意見交換を行い、非常に充実した会となりました。

また内容もさることながら、メンバーもずいぶん充実してきました。官僚、地方公務員、ベンチャー企業経営者、弁護士や税理士の専門職の方、私のようなサラリーマンなどなど、職業を異にするバラエティに富んだ同世代のメンバーが、それぞれの立場で意見交換を行い、少しずつですが人脈の輪が広がっていくことを実感していきます。単なる名刺交換に留まらない、本当の交流が進むことが私の願いでもあります。

その後の懇親会も銀座の居酒屋で行われましたが、深夜2時過ぎまで、いろいろな話題で非常にマジメな話が行われました。みんなアツイです。私の地元・宮城県庁に勤めるITくんも7月1日付けで仙台に戻ることになり、その壮行会もセットで行われました。ちょっとさみしいですが、ぜひ頑張ってほしいです。

大げさですが、これからの日本をよくするために、参加した方の行動や考えが、少しずつですが前に進むような機会となるような会になるとうれしいと思っています。

この会を継続することができているのは、実質的に運営してくれている税理士Oくん、弁護士Hさん、そしてベンチャー企業の取締役Iさんのおかげです。皆さんに感謝です。
「継続は力なり」かと、最近強く思います

次回は、大学院で私の担当教官だった先生に講師をお願いしました。
また楽しみです。

 災害ボランティア

災害ボランティアの状況をかきます。

仙台市で海に面する若林区宮城野区津波災害ボランティアセンターが立ちあがり、私は若林区のセンターに向かいました。センターに到着した順番に5〜10名ぐらいのグループとなり、ボランティアの方に泥かきなどの作業を要請しているお宅に派遣されるのですが、ボランティアセンターからその現場までは、午前中にセンターの方が運転するマイクロバスやワゴン車に乗って連れていってもらい、作業をして、15時頃までに作業を終了して、ボランティアセンターのバスなどでセンターに戻るという仕組みになっています。5月4日と5日のたったの2日間でしたが、ここでボランティア活動をしました。

初日に派遣された場所は、海から直線距離で2キロぐらいのところの農家でした。
広い庭の泥かきやがれきのなど撤去を行いました。

初日にお伺いした家では、古い納屋は完全に傾いていましたし、2日目にお伺いしたお宅では、物置の奥にまでヘドロが入り込んでいて、地面の高さから2メートルぐらいのところは、本当に海水に浸かっていたことがわかります。庭にも泥が堆積して、植え込みの陰のところまで、これまたきれいに泥が入りこんでいて、これを取り除くのは本当に大変です。

泥かきは、とても地味な作業ですが、とてもとても時間がかかるし、これから一般の家庭の復旧がはじまり、夏ぐらいまで時間がかかると実感しました。

自分の都合もあり、ボランティア活動はたった2日しかできませんでしたが、これから自分に何ができるか、考えていきたいと思います。

 言葉を失う・・・

きっと人生で初めて、本当に「言葉を失う」という経験をしたのかもしれません。

ボランティア活動をするため仙台市若林区荒浜近くの津波の被害を受けた現場を目にした瞬間の率直な感想です。

尊い命が多く失われた現場は、震災から2カ月近く経った今でも、この世のものとは思えない光景でした。前の日まで普通の生活があったその場所が、一瞬にして・・・胸が締めつけられる思いでした

震災当日の報道で、仙台市の荒浜で数百の遺体が発見されたとの報道があったところです。



仙台市は、海から内陸に3〜4キロぐらいのところに、仙台東部道路という高速道路が走っています。この高速道路は仙台の市街地を通らずに仙台空港仙台港に抜ける道路となっていて、この道路沿いにはいくつもの物流の拠点があり、東北の産業を支える重要な道路となっています。高速道路であるため、地上から5〜6メートルぐらいの高さのところを高速道路が走る形となっています。この道路は首都高のように道路が柱で支えられているのはなく、土を盛り上げた上に道路がある形態です。またさらに道路の両側(特に海側)は米どころ宮城・仙台平野の広い田んぼが広がっている地域です。

映像でもご覧になっていると思いますが、津波は海外線を越えて、防砂林となっている海岸線沿いの松林を越えて、この田んぼを襲いました。そして津波仙台東部道路にまで達して、この道路を挟んで海側は甚大な被害を受けたものの、逆に内陸側の被害は最小限に食い止められました。まさにこの道路が津波の防波堤の役割を果たしていました。聞くところによると、車で逃げた人の中には、逃げる車で渋滞となり、車を乗り捨ててこの道路に駆け上がって助かった人が多かったと聞きました。


私は、多感な高校時代に通っていた高校や下宿があった仙台市若林区が甚大な津波の被害を受け、震災後、微力ながら少しでも地元の役に立ちたいと、そんな気持ちで、募金だけでなく何かボランティア活動をしたいと思い、このGWに一人で仙台に来ました。相当ひどい状況であることは、報道などを見てで覚悟して来たつもりでしたが、ボランティアセンターからボランティア作業の現場に向かうバスに乗って、この仙台東部道路を内陸側から海側に小さなトンネルで抜けたあとの光景を見て、言葉を失いました。テレビや新聞だけではわかならい、本当に広大な地域が津波の被害を受けていました。


田んぼの中で至るところで車が埋まり、家の中にあったはずの家財道具が田んぼのなかに散乱し、なかには海岸線にあったはずの大きな松の木が、田んぼに逆さに刺さっているような光景を目にしました。

ところどころに集落があるのですが、比較的新しい家は、家自体は大丈夫なのですが、よく見ると1階の自分の身長よりも高いところに横に泥の線が見えて、ここまで水がたまっていたことがわかりました。最初は10メートルぐらいの津波をかぶって、その後、水が引かず、2メートルぐらいのところまで数日水が残っていたようです。

また、このあたりは農家が多いため、農機具をしまっている古い納屋は屋根が真っ二つにVの字で割れていたり、あるいは大きな柱が斜めに歪んで、いつ倒れてもおかしくない状況になっていたりと、そのような建物があらゆるところに散見されました。

さらに建物には「捜索終了」の張り紙やマジックで窓に書かれていて、自衛隊や米軍が捜索活動を行ったあとが見えました。

時折、自衛隊のヘリや車が近くを走っていたり、ひっきりなしにゴミ収集車が走っていましたが、よく見ると東京23区と書いてあって足立ナンバーだったり、その他の地域のゴミ収集車もあり、全国から支援の車が来ていました。

津波の被害を受けた方の感情を慮って、写真撮影はしないで欲しいというボランティアセンターからの強い要請があり、ここでの撮影をしていないため映像をお見せできませんが、私の目にはこの光景が強く焼きつきました。

とりとめのない文章となってしまい、すみません。

ボランティア活動の様子は、また次のブログで書きます・・・

言葉の力、スポーツの力

uzzuman2011-05-04


昨日の続きですが、、、

仙台の駅を降りてから、私の自宅へは仙台市営地下鉄の一番北の終点である「泉中央駅」に向かいました。この駅はユアテックスタジアムという、J1のサッカーチーム「ベガルタ仙台」のホームグランドがある駅でもあります。

そこで見たポスターに目を奪われたので写真におさめました。

ベガルタ仙台のほかに、仙台に本拠地を置く野球の「東北楽天ゴールデンイーグルス」とバスケットのbjリーグの「SENDAI 89ers」の3つのチームが合同で主要な駅などでポスターを掲載していました。

こんな感じです。
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スポーツで勇気づけようと力が入っていました。

そして、楽天ゴールデンイーグルスの嶋選手会長の試合終了後の挨拶はとても素晴らしかったです。
4月29日の仙台開幕戦をケーブルテレビでライブで見て感動しました。
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「誰かのために戦う人間は強い」と。。。

そして最後に、「今、この時を乗り越えた向こう側には、強くなった自分と明るい未来が待っているはずです」というフレーズに心打たれました。

幸運にもこの試合チケットを手に入れて、試合を見に行った地元友人TKくんとこの日に飲んだのですが、涙が出そうになったと言っていました。

そして、4月2日のチャリティーマッチでの「見せましょう、野球の底力を!」もとても心に響きました。
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言葉の力に感動しました。

この日、地元友人のTKくんと仙台市南部の某市役所に勤務するOKくんと飲みました。この話は、またのちほど・・・

 仙台へ

uzzuman2011-05-03


GWの後半開始のこの日、私は仙台へ向かいました。

妻と子供は、妻の実家のある福岡へ帰省していましたが、私はいてもたってもいられず、どうしても地元仙台でボランティア活動をしたいと思い、一人で仙台へ向かいました。

妻と子供は2日に福岡に帰ったため、私は朝から洗濯など、少し家の片づけをして15時過ぎの東京発の新幹線で仙台に帰りました。新幹線も先週全線復旧したばかりという状況でした。

あと10分ぐらいで仙台駅というところから、仙台の街並みが少しずつ見えてくるのですが、一見、何も変わらないように見えましたが、所々で屋根に青いビニールシートをかぶせている家が見えました。瓦が落ちて、応急処置としてビニールシートで、覆っているようでした。

在来線(東北本線)の仙台の南隣の駅の長町駅付近では、もともとJR操車場の跡地で再開発が進んでいて、一部空き地があったのですが、ここに(新幹線から見える限りですが)100戸程度の仮設住宅ができていました。

そして仙台駅に降り立ちましたが、新聞等で天井崩落の様子をみていました(新聞はこちら)。そんな仙台駅の天井はこのとおり、鉄骨がむき出しでした。
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でも新幹線で仙台に降り立ったときに、いつもとは違う、何か新鮮な気持ちになりました。
新幹線の先頭車両には以下のロゴが・・・
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何かじ〜んときて、アツい気持ちにさせられました。

今話題のJR九州九州新幹線のCMを思い出しました。ご存じのとおり、震災の翌日に全線開通した九州新幹線ですが、東北新幹線が寸断され、4月29日の東北新幹線の全線復旧で、青森から鹿児島が一つの線でつながりました。(記事はこちら
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そして、仙台駅構内では、楽天イーグルスの3つの開幕戦(千葉での開幕戦、神戸での楽天ホームゲーム開幕戦、そして仙台での開幕戦の3試合)で全て勝利したときのウィイニングボールが飾ってありました。
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楽天イーグルスの岩隈選手、山崎選手、田中選手の写真も掲載されています。人気があるんですね。
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そして外壁は工事中でした。
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しかし外側を覆うシートには、「がんばろう東北」の文字が・・・

この続きはまた明日です。。

 上野動物園へ

GWも2日目。
急遽、思い立って上野動物園へ行きました。

パンダも来て、一方で震災で客足もいまいちということで、行ってみたわけです。

我が家はいつも自宅の近くからバスが出ていて、乗り換えなしで池之端のバス停にいくと、西門(池之端門)という、いわゆる裏の入場門から入ります(交通アクセスはこちら)。恐らく多くの方は上野公園から東門から入っていると思います。

それで、10時ごろに西門から入って、園内のモノレールに乗って、パンダ舎の方へ急ぎました。

そうしたところ、長蛇の列、列、列・・・

パンダ人気をなめてました。

まずは、妻が並んで、私は子供を連れて、ゾウ、ゴリラ、トラ、ライオンとメジャーな動物を見てまわり、妻が並ぶ列に入りました。

結局、パンダに会えたのは12時過ぎで、妻が最初に並び始めて約2時間弱でした。

そして、パンダ舎の警備員の方に、「写真1枚撮ったら進んで下さい」「止まらず進んで下さい」と連呼され、どっちが「リーリー」か「シンシン」かわからないまま、ただシャッターを押して、そして子供抱えながら進みました。

パンダを見たあと、疲れてしまい、お昼を食べて、西門近くでキリンを見て帰りました。

パンダ人気恐るべし・・・・

 宮城の友人たちと

震災後、初めて宮城の友人たちと飲み会をやりました。

そして、またひとつ悲しいお知らせがありました。


石巻の大川小学校で、中学校のとき同級生の生徒会長がここの先生をしていて、津波で亡くなったとのことでした。(記事はこちら

マスコミにもかなり取り上げられているので、ここでの話をご存じの方も多いと思いますが、地震直後に、避難した場所で津波に襲われ、生徒と教員の多くの命が失われました。悲しい限りです。子を持つ親として、ここで失われた多くの子供のことを考えると言葉がありません。

彼とは、特に仲がよかったわけでもありませんが、生徒会長になるぐらいですから、みんなに信頼される人格者でもありました。実は、この春にもっと内陸の小学校に転勤が決まっていたのとことでした。また小学生のお子さんも二人いるとのことで、残された家族のことを思うと胸が締め付けられる思いです。

本日は、私を含めて4人で飲みました。県庁に勤務するITくんは、4月1日付けで仙台に戻る予定が、この震災で凍結となり、東京で休日も含めて交代勤務をしているとのことでした。なかなか表立って飲み会に行くこともできず、私から誘ってみました。

みんな、地元が悲惨な状況で明るい話題はなかなかありませんでしたが、少しはガス抜きになったのではないかと思います。

他の2人の友人たちも、このGWに宮城に戻り、大川小学校の教員をやっていた彼のお墓参りに行くととのことで、戻ったときにまたいろいろ話をしてみたいです。